戦争社会学研究会発会の祝辞に代えて(森岡清美先生 御講演)

2009年5月16日(土) 於: 明治大学研究棟 第3会議室

戦争社会学研究会発会の祝辞に代えて

 森岡清美

 戦争社会学研究会の発会、まことにおめでとうございます。青木秀男さんの執念ともいうべき熱意がこうした形で稔ったことを、ご参会の皆さんとともに慶びたいと存じます。
さきほど発会記念講演とも受けとれるご紹介をいただきましたが、それだけのキャパシテイをもちあわせていませんので、祝辞がわりのご挨拶でお許しいただきたいと存じます。
私がこういう晴れがましい役割を仰せつかったのは、本日ご参会の方々のなかでは断トツの高齢者であって、皆さんの研究対象にもなる世代に属するからだろうと推測いたします。いわゆる戦中派です。


Ⅰ 戦中派について
戦中派というのはどの時代に生まれた何年ぐらいの幅がある世代でしょうか。本日わざわざ京都から参加された福間良明さんが、今年の春『「戦争体験」の戦後史』という興味深い本を中公新書の一冊として公刊されましたが、その中で、戦中派とは1920年代前半生まれの人たち、1920年前後生まれの人たち、という二通りの規定を示しておられます。前者は学徒出陣世代です。1943年10月に学生・生徒の徴兵猶予が停止され、徴兵適齢(20歳)を越えた人たちが同年の末頃召集されました。順調に大学まで進学したとして、その年の在学生の最年長は1920年生まれ、そして1944年に徴兵適齢(19歳)に達したのが1925年生まれですから、学徒出陣世代は1920-25年生まれということになります。隅谷三喜男さんという有名な経済学者が、私は太平洋戦争勃発の前、1941年3月に卒業したから、戦前派の最後だということを書いています。それなら戦中派は2年さかのぼって1918ー25年生まれということになり、1920年前後生まれと要約できます。いずれにせよ、1920年前後から20年代前半生まれの人たちであって、散華の世代、私のいう決死の世代に相当します。福間さんの戦中派の捉え方は妥当といえましょう。
 日本社会学会の会員でいいますと、1917年以前生まれ、つまり戦前派に属する人たちとしては、福武直・内藤莞爾・日高六郎らの諸氏を挙げることができます。この方々は戦前派の末尾を飾りました。戦中派は青井和夫・中野卓・作田啓一の諸氏、それに私もこの世代に属します。戦前派はほとんどが故人となりましたが、戦中派はまだなんとか生きている人が多いのではないでしょうか。本日、戦中派である私が、この場に参加してベテラン・新進の元気な方々と同席できたことを、望外の幸運と受け止めています。

戦中派は戦前派から、そしてしばしば戦後派の人たちからも、教養に欠けると批判されることを、福間さんの先ほどご紹介した本から学びました。そんなことはないと言い返す方も戦中派にはいると思いますが、私はその通りと肯定するに吝かではありません。というのは、戦中派の修学期間が短かったからです。1944年度には旧制高等学校および専門学校生徒の修学期間が3年から2年に短縮されました。工場や農村に生産増強のために動員されましたが、動員期間中は学校で授業を受けないのに、受けたと同様の扱いで進級、それに召集されて軍隊に在った期間も在学期間に算入されました。私など、東京高等師範学校と東京文理科大学で通常なら計6年の修学年数のところ、5年に短縮され、さらに学徒動員・学徒出陣で計1年半も授業を受けず、実際の修学年数は寄せ集めても3年半に過ぎないのです。こんな不十分な教育で大学の教師になったのですから、欠陥教師もいいところですネ。戦後、蘇生したように夢中になって知識を求め、学力の補充に日夜努めましたが、成長に必要な栄養は適時に摂取しなければものになりません。戦中派は教養に欠けるという批判を甘受するとともに、そうした世代を作りださぬ国家の運営が求められます。
 やや駄弁を弄しましたが、今お示しした戦中派の世代設定は、国民のうち高等教育を受けた数パーセントの人々に着目したものであるところに、看過できぬ欠陥があります。そこで、大多数を占めた高等小学校卒を手がかりとして広く捉えるなら、日中戦争勃発の1937年に徴兵適齢に達した1917年生まれから、1944年に徴兵適齢に達した1925年生まれまで、あるいは少年兵志願者の最年少1929年生まれまで、後者なら1917-29年生まれということになります。もちろん、これは今後検討を要するところであります。

Ⅱ 戦争社会学とは
研究会が研究対象とする戦争社会学とはどんな学問でしょうか。先ほど青木さんから提出された「戦争社会学研究会の設立の呼びかけ」にも、戦争社会学とは何かという、定義めいた言説はありません。これは会員皆さんの討議のなかで漸次形成されてくるものとの期待を込めて、関心の範囲を予め制限するような言及を避けたからであろうと推察しております。しかし、未熟かつ大雑把でも定義案を掲げてみて、皆さんのこれまでのご研究の範囲を勘案し、これからのご研究の展開を見すえつつ、修正していくのがよいのではないでしょうか。今後修正するための叩き台としての定義案は、邪魔というより必要ではないか、そう考えて私見を提示してご批判に委ねたいと存じます。

戦争はさまざまな側面をもっています。ですから、戦争社会学のほかに、これと並ぶものとして、戦争経済学、戦争政治学、戦争法学などなど成り立ちうると考えます。現状では、戦争経済学は語れないが、戦争の経済なら大いに議論することができる、といったことがあるのではないでしょうか。戦争社会学は戦争を総合的に研究するものではありません。しかし、戦争社会学には経済学の知識、政治学の知識、法学の知識、近代史の知識等々、関連分野の知識が必要であるのみならず、隣接分野で陶冶された概念、方法、あるいはアプローチのなかに戦争社会学を前進させ、活性化させるために必要なものがあれば、それらを活用しなければなりません。しかし、この研究会が戦争社会学研究会と名乗る以上は、戦争の社会学的側面に考察の焦点を置くものと理解いたします。そこで、社会学的側面に焦点を置いて定義的にいえば、とりあえずつぎのようにいうことができましょう。
戦争社会学とは、戦争という国家的非常事態における、およびこれに関連する人々の 意識・行動・組織を研究する社会学の一分野である。
戦争には対外戦争だけでなく、戊辰戦争や西南戦争のような内戦も含まれます。いずれにせよ政府が国家権力を動員してかかわる非常事態です。国家的非常事態といっても、インフルエンザ対応などは低いグレードの非常事態ですが、戦争は最高グレードの非常事態、国家の存亡・興廃のかかる非常事態です。そうした非常事態に際会した人々はもちろん、その時代にいなくても関連のある人々の、意識・行動・組織を研究します。意識には態度、価値観、理念、思想などと呼ばれる領域を含みます。また、行動には個人的行動から、集合行動、乱衆行動などがあります。さらに、組織といっても密度や規模の点で大小さまざまなものを含んでいます。
なお、研究資料としては、記憶、記録、造形物資料を挙げることができます。普通の社会学研究が用いる資料とは異なって、観察資料に依存しません。というのは、現代日本での戦争社会学は日本が当事者となった過去の戦争を主な対象としますので、戦争の参与観察などできないからです。第二次大戦中、アメリカの社会学者がイタリア戦線に派遣されて、兵士の志気を高めるための研究をしたときには、観察も重要な研究資料収集の方法だったと思いますが、こういうことは現代日本では考慮の範囲に入りません。その代わりに、記憶資料、すなわち経験した人の記憶が資料として重要です。これは多くの場合、記録資料②③となって利用されます。記録資料には、関係者が事務処理過程で作成した①事務資料、経験が鮮明なうちに当事者が記録した②経験資料、当事者や関係者の口述を面接者が文章化した③面接資料、第三者が調査してその成果を記録した④調査資料などがあります。最後の造形物資料とは、戦争当時の軍関係の施設跡、戦跡、戦後建造の塔碑などがあり、戦後建造物は記録資料の一種⑤を含みます。
このような戦争社会学は、過去の戦争を主な研究対象とすることから、戦争の歴史社会学、戦争の社会史(過去の戦争の社会学的研究)とほぼ同義となります。ただし、研究の展開のなかで、この私案も修正に委ねられるべきことはいうまでもありません。

Ⅲ 当面の課題
誰しも重要と認める事項でありながら、単独ではできにくい課題も、共通の関心をもつ人たちが協力すればなし遂げることができる場合があります。研究会が設立されたということは、そういう条件、可能性がある程度成立したものと理解できます。会員の連携・協力によって達成されることが期待される事項を、当面の課題として挙げてみたい思います。

1.文献目録の作成
これには少なくともつぎの二項があります。第一は、誰がどんな研究をし、どの分野がどの程度開拓されているかを知ることができる、分野別研究文献目録の作成です。将来、研究会として年報を刊行できることになったとき、是非掲載してほしいものです。第二は、既刊資料目録の作成です。私が戦争社会学領域の著書を二冊出したとき、既刊の遺書類を主な資料給源としましたが、遺書類だけでも当時すでに多数ありました。軍関係の学校史、部隊史、戦記・戦史、満蒙開拓団史、青年団史、愛国・国防婦人会史、在郷軍人史、その他戦争目的のために創られた団体史、などなど、汗牛充棟とはいかなくても随分の量ではないかと思われます。

 

 

2.資料の発掘
これにも少なくともつぎの三項があります。第一は刊行されていない記録資料の発掘です。私が利用した遺書類のほとんどは既刊のものでしたが、本人自筆のものも少数発掘しました。篤志家の協力をえて未刊資料の発掘を志しても、戦後すでに60余年が過ぎた今では、労多く功の少ない作業ですから、これは運に委せるほかないことでしょう。もし運よく発見したとき、公共の場に引き出す努力をしていただきたいものです。第二は、刊行されたものの今ではほとんど手にすることのできない資料の発掘です。国立公文書館、防衛省防衛研究所図書室、公立図書館郷土史室などで発掘できるかもしれません。宝の山に狙いをつけて探れば、かなりの成功を収めることができるのではないでしょうか。第三は、記録になっていない口述史資料の発掘です。全国各地から社会各層にわたって信頼度の高い戦争体験談を掘り起こしたい。対象をコーホート別、性別、地域別、階層別に選定できれば申し分ないところです。

Ⅳ 緊急を要する研究課題
軍隊経験者(戦中派の生き残り)、戦争未亡人、空襲被災者(原爆被災者を含めて)、外地引揚者等に対する面接調査による生活史のライフコース分析が、緊急を要する課題と思われます。軍隊経験者についていえば、正規入隊者の最年少は1925年生まれの本年84歳、少年兵志願者の最年少でも1929年生まれの80歳に達します。これらの軍隊経験者は年ごとに少なくなっていきますし、面接調査に堪えうる余命はあと幾年かと考えますと、ここ数年で調査ができなくなるのではないか、との危惧の念を懐くものです。資料発掘の第三として指摘した事項のうち、最高齢者を対象とする面接調査を早期に実施する必要が大きいのではないでしょうか。

 最近、私の長年の友人がNPO法人「予科練の灯を守る会」を立ち上げて、自分たちの足跡に関する記録を残そうとしています。予科練の生き残りに面接調査をするさいには、この法人に連絡すれば都合がよいと思いますので、蛇足ながら言及しました。
戦争社会学の研究に面接調査が不可欠というわけではありません。私自身、元特攻隊員への面接や手紙での質疑はミニマムに止め、既刊資料でなんとか研究をまとめることができました。既刊資料は豊富にあるし、面接調査には途方もない時間と労力がかかる、という状況のなかでのやむをえない選択でした。しかし、口述史資料の発掘は現在および将来の研究に新しい資料を提供するという、拡大再生産的な意義をもっています。他者が掘り出した資料をいただいて研究をまとめるだけでなく、これまでになかった新しい資料を少しでも発掘して公の場に提供することは、学術的意義がある作業です。今や口述史資料の重要な部分が湮滅に帰そうとしているとき、その学術的意義はとりわけ大きいと考えるものです。戦争社会学研究会に寄せられる期待の一つは、湮滅に委ねられようとしている口述史資料を集合的努力によって掘り起こすことではないでしょうか。
本日の会合にはるばる沖縄から出席された石原昌家さんが、不戦のための証言として活用させていただくということで沖縄戦経験者に体験談を聞き取っても、戦争への跫音が高まる時代の勢いに抗することができない空しさ、話者の厚意に背いたような後ろめたさを感じるという、切実な思いを語られました。米国国防省の推計では、2000年度から2009年度までの10年間に、世界の軍事予算総額は約3倍に増えているそうですから、戦争への跫音の高まりを感じるのは、幻想でないことが明らかです。精出して口述史資料をいくら集積しても、戦争への傾斜を食い止めることはおろか、その流れに何らかの影響を与えることもできないという無力感に囚われます。では、口述史調査は無意味なのでしょうか。 私はそうは思わないのです。全く無力のようでも、戦時中の非人間的な体験を忘れないという、まさのそのことが大切だと考えるからです。沖縄戦についていえば、沖縄の方々が内地防衛の人柱にされたという悲惨きわまる事実を、具体的にしっかりと記憶に叩きこんで忘れないこと、そういう形ででも沖縄の方々の心に寄り添うことが、意味をもつと私には思われるからです。体力のいる生活史研究、口述史調査は高齢の私にはできかねますが、現役でご活躍の皆さんには機会があればぜひ心がけていただきたい、勝手ながらそうお願いして私のご挨拶を締めくくらせていただきます。