1998年2月22日の夢

2月 26, 1998 under 夢日記

夢日記【第一回】
ストレンジャー・ザン・パラダイス
Stranger than Paradise(註0)

夢日記(1998年2月22日)

 大学にいるらしい。イギリスで、今いるエセックス大学(註1)のはずだった。しかしこの大学はどこから観ても巨大な日本庭園である。ビルディング類はひとつも見当たらない。周りには水が流れている。それも豊かでゆったりとした流れである。巨大な岩が置かれ、松の木なども植えられている。敷地自体が一種の巨大な中州のようである。なんと風流な大学であろうか。
 流れの側の視点からそれを観ている、ということは船にでも乗っているのであろうか。水は濁っているわけではなく、水量の豊富な緑の清流で、上流では上下に重なった平たい二枚岩が流れに洗われている。二枚岩は細長い楕円形で平らである。まるで川岸にできた自然のテーブルのようだ。15センチぐらいある岩の間には水ゴケのように何かが付着している。薄い黄色で乾いていて、かつ弾力性のある感じだ。コケとはおもえない。よく観るとそれはケーキのカステラ部分だった。
 私は図書館に本を探しに行くらしい。しかし見渡す限りの日本庭園でそれらしき建物はない。そこで電話が入った。特に受話器を持っているわけでも携帯電話を持っているわけでもないのに受け取ることができる。それは同じ大学院にいるY.M.さん(女性)(註2)と彼女の弟である。夢の世界の右上方の空間に丸いウインドウが開き、映像も入る。二人の顔ははっきりしないが、何故かそうと分かる。顔が見えないのは喜びの光で輝いているためだ。しかし微笑んでいることは分かる。二人ともとても仲がよいようだ。楽しそうである。顔が見えないのに微笑んでいることが分かるなんて、まるでチェシャ猫のようである(註3)。
 電話で彼女は、図書館には私の探している本はない、けれども「川の上流にある図書館にならありますよ」と教えてくれた。ありますよ、という彼女の声の最後の部分が樹々の間をこだまして、消えて行く。ああ、なるほど。そうだなあ、などと思う。川の上流に企業が一般に開放している図書館があることを思い出す。その名前までは記憶にない。この人はいつも役に立つ情報を送ってくれるなあ、などと感謝しつつ川の上流へ向かう。やはり船かボートに乗っているらしい。自分で漕いでいるわけではないからモーターがついているのであろう。川の流れを苦もなくさかのぼって行く。きっとここでは水上交通がバスのように発達した交通機関なのであろう。非常に便利である。
 流れをさかのぼって行く途中で、また先ほどの二枚岩のあるところへ来た。岩の間には今度はもっと黄色いものが付着しており、それはどんどん増えている。ひとめ見ただけでそれがチーズであることが分かった。「ああ、こんなにチーズが積もっているのかあ。これじゃあ図書館に本があるわけないよなあ」などと妙に納得する。どうやらこの二枚岩が図書館の蔵書状況を示す掲示板の役を果たしているらしい。二枚岩を通り過ぎ、私はさらに流れを溯って行く。 突然上流に図書館が現れる。それは黒い鋼鉄でできた巨大な建物である。無駄な装飾など一切なく、壁もみな鋼鉄である。「メトロポリス」(註4)にでてきた巨大な機械工場のようだ。川幅と同じ幅を持つ入り口がぽっかりと開いており、そのまま船ごと建物に飲み込まれていった。 いつのまにか船を下りており、部屋に入っている。部屋といっても体育館がいくつも入るような巨大な空間である。天井も高い。人気はまったくない。棚がずっとどこまでもならんでおり、それが仕切りともなっていて、いくつかのブロックを形成しているようだ。そしてすべてが鋼鉄でできている。ますます工場のようだ。中は薄暗い。しかしためらわず本を探して進んで行く。床は鋼鉄製の金網だ。人間の体重ぐらいではびくともしない。頑丈である。手近な棚から調べ始める。見てみると棚は書棚ではなく平棚で、そこにはドリルやスクリュー・ドライバーなどの工具類がきれいに並べられてある。それが3、40メーターぐらいずっと続いている。工具類は使われた形跡はなく、すべて新品同様で、油をはってある。そして、同じ物はひとつとしてないようだ。そのことが何故だかとても重要なことに思えた。「このセクションはちがうようだなあ」などと考えながら、別のブロックへ向かって歩いて行く。もう、工場というよりもドゥ・イット・ユアセルフ(註5)のようである。しかし内心では、無性に知的好奇心をくすぐられている。全体の構成を把握したいという知的な欲望を熱く感じている。
 ある棚の角をまわると、突然人に出くわした。ぶつかるほど近距離ではなかったが、相手はひどく驚いたようだ。目をみはり、眉をつりあげている。男性だ。40代ぐらいだろうか。東洋人で、オレンジ色の服を着ている。それはカンフー着(註6)かあるいはスタートレック(註7)にでてくる宇宙船の乗組員の制服のようだ。カンフー着だと思ったのは相手が東洋人だったからだろうか。男は愕然として立ち止まっている。なぜそんなに驚いているのか。 やばそうだなあ…・。そう思いつつも平静をよそおって男の傍らを通り過ぎる。すれ違っても何も言われなかったのでほっとしていると、「待ちたまえっ!」と、背後から詰問口調で声をかけられた。もう少し距離を稼ごうと足を止めずに「いや、本をね。本を探しているだけなんです」などと応える。相手が追いかけてくる気配を背後に感じたので自分も走り出した。もう全力疾走である。なんどか角を回り、相手の気配は遠ざかる。そうして私は建物のかなり奥深いところまで来てしまったようだ。 次の角を回ると、(角といってもみんな棚なのであるが)今度は別の男に出くわした。やはり同じ制服のようなものを着ていた。信じられないものを見るような目つきで私を見ている。あまりのショックに声も出ないようだ。今度の男もやはり東洋人で、カンフー映画の端役のようにどじょうひげを生やしていた。するとやはりあれはカンフー着だったのだろうか。男は田舎の乱暴者のようなしたたかそうな顔つきをしている。愕然としている男の胸のあたりに字幕が出た。「犬田権造」と読める。この男の名前だろうか。字幕が消えると、男は「うぬっ」と声を発して私につかみかかった。間一髪でそれをかわすと、私はまた走り始めた。逃げるのだ!今度はさっきよりも必死である。背後から男の「待てっ」とか「どこから…」などという声が聞こえてくる。男は恐ろしく身軽で、棚を飛び越えたりしながら追ってくる。だが、かえって工具に服のすそがひっかかってずっこけたりしている。棚が倒れ、工具類が床に散らばる派手な音が背中に聞こえる。もうまちがいない。男はカンフーの達人だ。それはあの訳の分からない跳躍力からも明らかだ。必死に逃げる。 どこをどうやって逃げたのかは分からないが角を曲がり、ふと気がつくと棚の上には農具がずらっと並んでいる。干し草を扱う巨大なフォークみたいなものや、鋤などがずっと並べられている。みな新品で金属部分は光っている。どれも使われた形跡はなく、そしてどれひとつとして同じ物はないのだった。
突然、閃光のように考えがひらめいた。「ここは農具のセクションだっ!」(だから何なんだ?)。そう思った瞬間、目の前に別の男が立っていた。同じ制服。東洋人。ずるがしこそうな目。そして胸のあたりにまた字幕が出た。「犬山権造」と読めた。さっきの男と一字違いだ。男は私の心を読んだかのように言った。「そうだ。ここには同じものは何一つとしてないんだ。同姓同名もな。みんな一つずつ違うんだ」 背後からはさっきの男が追いついてきた。そして最初の男もやって来て言った。「いったいどこから入ってきたのか…」私は囲まれる形になった。絶体絶命だった。最後の男(犬山権造)は私の顔を見詰めながら、にやりと笑って言った。「ひとつひとつ全てがあるのさ」
 その途端、私は全てを理解した。ここは秘密の宇宙船で、現代文明の全てをひとつずつ集めて載せているのだと。何か知らないうちに進行している陰謀の現場へ、私は迷い込んでしまったのだと。またこんなことも考えていた。ああ、やはりあれはカンフー着ではなく宇宙船の制服だったのだ。あるいはその両方を兼ねているに違いない。そしてその考えにはひどく確信があった。そして今はピンチだ。なんとかこの場を切り抜けなくては…。焦りながら思考を巡らしていると、目が覚めた。

自己分析

 さて自己分析である。ここではJ. E. Cirlot, A Dictionary of Symbols, second edition, Routledge,1971に依拠して考えてみよう。まず最初に現れる重要なシンボルは「水」である。近代の精神分析の観点からいうならば、このシンボルは無意識そのものを表象している。流体であることは無定型、かつ力動的な動機、また人格の女性の側面、生命誕生の源である母性、さらに創造と英知を意味している。これらは神話学においても同様である。このように眠りの中で無意識から力と創造力を得ていることが分かる。精神を腑活させる眠りの働きの不思議であろう。川の流れであることから、それはまた不可逆的な時の流れをも表象している。上流に向かって溯って行くことから時間の遡行への願望であろうか。老いへの惧れがあるのかもしれない。
 次に二枚岩であるが上下に重なっているところから、これは性的なものであるように思われる。岩の間にケーキのカステラやチーズという乳製品が積もってゆくところからも、どうもそうらしい。さらにそれが積もることと図書館に本がないこととが因果関係として理解されている。知性と性欲との対比であり、そのような欲望を客観的に見つめつつ、あくまで知的探求に向かって行く。夢とはいえ立派である(笑)。
 性的といえば登場するただ一人の女性であるY.M.さんであるが、これはご本人とは特に関係がないのであろう。それは顔がはっきりとしないという点からも明らかなようだ。特定の個人ではなく、もっと抽象度の高い女性原理のようなものを表象しているのであろう。弟(幼児の様だ)と仲良しであり、輝いていることから、一種の聖母、あるいは大地母の象徴である。これらは前述した水のシンボリズムと同一視されることもあって、その意味では無意識と創造性を表わす。また婚姻と失われた永続性に対するノスタルジーであるとともに、ユング派においては「運命の神」の象徴である。ここには、一種の動機づけと指標の役割を果たす女性と、その指示によって冒険の旅に出るという基本的な物語原型が反復されている。そして前述した川のシンボリズムと考え合わせるならば、それは不可逆的な時の流れを遡行する旅である。同一のシンボルがこのように繰り返し現れていることから、これは単なる老いへの惧れだけではなく、時を溯り新たな自己解釈・自己探求をしようとする精神的な営みの現われでもあるのだろうか。
  またこの「時」の遡行が性的な意味を持っていることは、おそらくフロイト学派の解釈によれば容易に判明するであろう。川の流れ(時間)を溯るということは、二枚岩(性交)、図書館の出入り口(出産)、図書館内部(子宮)というシークエンスを持っている。つまり図書館での冒険は江戸川乱歩が執拗に追求したテーマであった「胎内巡り」であり、子宮回帰願望の現われ、とする解釈である。現在から、出生前の過去に一度溯り、新たな自己を獲得しようとしている一種の「生まれ直し」である。
さて、東洋人であるが、おそらくこれはシャドウであろう。つまり他人の形に投影された自分自身だ。それがずるがしこい東洋人だったり、田舎の乱暴者だったりしているのは、西洋人の眼から観た自分、つまり彼らには自分がこう見えているのではないかという想定された自己であり、その意味で社会的な自己像であるといえるだろう。西洋人の観点を想定していることはカンフー着からも理解することができる。カンフー着とは東洋的なもの、さらにいえばあくまでも西洋によってつくられた東洋的なものであり、サイードのいうオリエンタリズムを示しているといえよう。これは白人社会に暮らしているプレッシャーの現われだろうか。  さらに日本庭園である。どうしたことだろう。ホームシックなのだろうか。日本に帰りたいとは(少なくとも意識的には)思ってはいないから、これは郷愁のようなものなのだろうか。日本をシンボライズしているのであろうか。そうだとすればこれは郷愁というよりも、むしろ西欧への対抗意識としての日本文化の象徴のように思われる。対比として図書館が機械化された鋼鉄の塊であることに注意したい。同時にそれは近代文明をも象徴しているのである。植民地主義によって蓄積された膨大な知識量と、獲得された圧倒的な力の差の表象であろうか。よく海外からナショナリストになって帰ってくるという話を聞く。私の周りでも、愚痴や文句ばかり言っている日本人がたくさんいる。私自身も腹の立つことが多い。つまり、外国というそれまでの自分の育ってきた文化や常識が通用しない世界に暮らすと、それらに対する反発や対抗意識が(おそらくは防衛機制として)発生するのではないかと思われる。それによって自己否定を拒否するためである。
  同じ物はひとつとしてない、という考えが一種の洞察として、何度もひらめき、印象に残っている。これが今回の夢のテーマなのであろう。このことは先の怪しい東洋人という自己イメージと合わせて考えるとわかりやすいだろう。つまりこれはアイデンティティの希求である。言語や習慣の違う異国にあって、ともすれば自分の存在が群衆の中にまぎれて見えなくなってしまうことへの恐れであるといってもよい。白人からみればどれも同じようで見分けがつかない東洋人でも、実は同じ人間など一人としていないのだ、ということを訴えているかのようだ。また彼らの名前が「犬田」とか「犬山」とかいう動物名をあしらったものであることに注意しよう。つまりこれらは人権の主張でもあるわけである。
 さて、素人の夢分析はこれくらいにしておく。このように、以上の夢からも、私が異国の地で結構頑張っていることがよくお分かりいただけたであろう(笑)。そう思ったあなた、ぜひ筆者に感想、激励の手紙を出しましょう。また、今後も夢日記はつけてゆこうと思うので、続編が読みたい、という人には電子メールで配信いたします。また、以下に連絡先などを記しておきます。ちなみに私の誕生日は5月17日で、留学中にその日を迎えます(だから何なんだ?)。 最後になりますが卒業生のみなさん、卒業おめでとう。今年はみなさんの卒業の姿を見られないのが残念です。社会へ出て、これからいろいろ大変なこともあるでしょう。ある意味では、それはストレンジャーになることであるといえるかもしれません。けれど皆さんのひとりひとりが皆それぞれの個性を持った貴重な人間であることを忘れないで下さい。まあ、つらい時には夢日記でもつけて(笑)、ゼミ室にでも送ってください。創友会の折りにでもお会いできることを楽しみにしています。それでは。

1998年2月26日
初出誌:『Weisheit』、1998年。

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註0
筆者(粟津)は、Eメール友達である松本雄一氏(神戸大学大学院)のHPに掲載されている人気企画「松本雄一の夢十夜」にインスパイアーされて夢日記をつけ始めた。本稿はその記念すべき第一弾である。
また『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は監督ジム・ジャームッシュ、主演/助演ジョン・ルーリー、エスター・バリントによる1984年米・独共同制作による映画の題名である。この作品によってジム・ジャームッシュは一挙にメジャーに進出した。その意味で出世作であるといってよい。またこの作品は、モノクロ、自然体の独特の間など商業主義一本のハリウッド映画に対する強烈なアンチ・テーゼであった。現在留学中の筆者(粟津)は好むと好まざるとに関わらずストレンジャーであり、そうした意識がこの夢にも大きく影響を与えているらしい。そこで本稿のタイトルとしてこれを借りることにした。[本文に戻る]

註1
筆者が留学している大学。社会科学、特に社会学部と経済学部が有名で、研究機関としての評価も高い。敷地はWivenhoe Parkという田園の中にあり、うさぎが沢山いる。しかし日本庭園のようではまったくない。また小さな人工の湖はあるが川はない。英国では新しい大学であり建物は典型的な60年代のモダン・スタイルで、環境にマッチしていない。タワーと呼ばれる、ヨーロッパで一番高い煉瓦ブロック建築であるという地上15階建ての学生寮(学部生用)が建ち並んでいるが、今となってはむしろ醜悪でさえある。大学のメインの校舎は、二つの岡の間にあった空間を埋めるように作られていて、橋渡しする地下通路によってすべての学部にアクセスすることができる。しかしどこがどうなっているのか把握しにくい複雑な構造をしていて、まるでラビリンスである。事前に調べておかないと教室にたどり着けないこともある。教員ですら教室を間違うことがある。ここを設計した建築家はその後発狂したという。[本文に戻る]註2 社会学部大学院博士課程に所属する友人。外語大、早稲田を経てエセックスへ来た。社会史を専攻しており、歴史学の素養のない私は文献などをよく教えてもらっている。ハイカルチャーで育ち、部屋からはいつもクラシック音楽が聞こえてくる。弟がいるのかは不明。残念ながら日本に彼氏がいるらしい。ヴィクトリア朝女性史をフェミニズムの立場から再構成しようとしているので、当然の事ながら言葉に気をつかわなくてはならない。[本文に戻る]

註3
ルイス・キャロル(1832-1898)の有名な物語『不思議の国のアリス』の中に出てくる猫。いつもにやにや笑っていて、次第にその姿が消えてしまっても、にやにや笑いだけが残るという不思議な猫である。チェシャー地方は乳製品、特にチーズの産地であり、ここから写真撮影のときに「はい。チーズ」という慣習が生まれたという通説がある。しかしこの説は高山宏『アリス狩り』(青土社)によって反駁されている。なお、キャロルの本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジスンという数学者であり、生涯をオックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジの学寮で過ごした。当時の学長の娘であった少女アリス・リドゥルのために書いたのが前述のAlicein Wonderland(1865) であり、続編にLooking Glass(1871、邦題『鏡の国のアリス』)がある。クライスト・チャーチの向かい側にはアリス・ショップがあり観光スポットともなっている。ちなみに今年はキャロルの没後100年に当たる。[本文に戻る]

註4
Metropolis(1926)Germany, Directed by Fritz Lang, Screenplay by Thea von Harbou. 当然ながらモノクロ、サイレントである。1984年の編集バージョンには音楽等が入っている。内容は、いわゆるアンチ・ユートピア物であり、極端な階級社会となってしまった高度に機械化された未来文明における人類愛の追求がテーマ。実写とは思えないほど人物がよく動き、宮崎駿の『ルパン三世 カリオストロの城』にも、この映画の影響が色濃く出ていることがわかる。前述した社会学部大学院では毎年2月にGraduate Weekendが行われる。これは週末をホテルに滞在し、知的に過ごそう、またよく知り合おうというようなコンセプトで行われる。いわば合同合宿のようなもので、プレゼンテーションや討論を中心に行われる。発題者は教員かドクター以上の専門家で、全体会、分科会などがある。今年(1998年)はSouthendという海岸沿にあるリゾート地にて行われた。まるで熱海のような衰退しつつある観光地であった。結構、企画は盛りだくさんで、パーティや映画鑑賞などもあった。そこで観たのがこの映画であった。[本文に戻る]

註5
日曜大工の材料や工具を扱っている店。イギリスでは壁の塗り替えぐらいは自分でやるのが庶民の常識となっている。当然そうした店も多い。同系統の店はアメリカをはじめとする先進国、たとえば日本にも見られる。社会学者Peter Bergerは、こうした意識が近代社会特有のものであることを指摘している。Berger, Peter Berger, Brigitte Kellner, Hansfried, The homeless mind; modernization and consciousness, New York: Random House, 1973(邦訳『故郷喪失者たち:近代化と日常意識』新曜社、1977年)を参照。[本文に戻る]

註6
週刊少年ジャンプの連載中に大ヒットした漫画、鳥山明『ドラゴンボール』(集英社)で主人公の孫悟空が闘いの時に着ていたような衣装である。闘いという「ハレ」の時には必ず着用された。背中の「亀」のロゴは、当然ながら師匠である亀仙人の弟子であることを示している。ここから彼(孫悟空)のアイデンティティが、あくまでも師弟関係に忠実なものであることが分かる。ちなみに、その子供である孫悟飯はピッコロ大魔王の下で修業したことから、魔王と同じ衣装、あるいは「魔」とロゴの入ったものを好む。なおこの作品はテレビ・アニメ化され同じく人気を博し、「ドラゴンボールZ」、劇場公開用のオリジナル版数本、さらに「ドラゴンボールGT」と原作終了後も続編が作られたが、あきられたのか最後のシリーズは短命に終わった。[本文に戻る]

註7
6、70年代アメリカの有名なSF。スペース・オペラ物。もとはTVドラマであり、現在でも根強い人気がある。90年代に入っても劇場版の新作が製作されている。これを観て育ったベイビー・ブーマー世代(日本で言うと団塊の世代)が現在のアメリカ社会の中堅層を形成しており、親子二世代のファンがいる。小説はキャプテン・ゴードン・シリーズのように複数の著者によって書きつがれており、翻訳は早川書房と徳間書店から出版されている。宇宙船エンタープライズ号、登場人物のカーク船長や耳の先が尖ったエイリアンであるミスター・スポックはあまりにも有名。乗組員の制服は当然ながら身体にぴっちりとしたタイツ系である。おそらく素材はナイロンなどの石油化学繊維だと思われる。しかし色は銀ではなく暖色を使っている。昔のTV版が現在イギリスBBC1で再放送されている。当然セットはちゃちく、他の惑星だというのにカウボーイみたいな人がいたりする。日本では寺沢武一の名作『コブラ』(集英社)に、その影響がうかがわれる。[本文に戻る] 

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